気まぐれ日記

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花巻たこパーの会 発足!

花巻たこパーの会

 the Hanamaki Takoyaki Party Club

 

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第1回  2016年11月26日(土) 11:00~14:00 @坪谷家

 

主題  : まーくんの送別会

参加者 : 透さん、暁子さん、奏笑ちゃん、真澄

種類や具: たこ、キャベツ、あげ玉、紅生姜、チーズ、青のり、おたふくソース、

      マヨネーズ、かつお節

合わせて: せり鍋、特製キッシュ、サラダ

      ★料理はすべて、あきちゃん特製

主な話題: 真澄のこれからについて、花巻のこと、「子ども食堂」について、

      岩手のこと、働きかたについて、アンパンマンについて…

 

感想:

 真澄引っ越しに伴う送別会を、坪谷一家が開いてくださいました!

 坪谷一家にはいつもお世話になってばかりです…。今回もこのような機会を設けてくださいまして、感謝の気持ちでいっぱいです。

 たこ焼きは入れる具はオーソドックスなもの。最初に相応しい。味はもちろんバッチリでした。

 そしてたこ焼きとともに、今回の目玉料理、「せり鍋」をいただきました!

 せり鍋は、宮城県・名取地方の郷土料理だそうで、根の部分も含めた「せり」を味わう鍋です。自分は人生で初めて食べました。せりの爽やかな香りが、醤油味のスープと相まって、とても美味しかったです。個人的な感想ですが、鶏団子との相性は抜群だと思います!

 いつもどおり、奏笑ちゃんの笑顔をたくさん見ることができて嬉しかったですし、透さん・あきちゃんのご両名にはたくさんお話しを聞いていただいて、本当に有難かったです!

 

 たこ焼き(器)を囲む会を定期的に開こう!

先週末は花巻で

先週末は実家がある花巻へ。

土曜日には、花巻青年会議所が開催していたパネルディスカッションを聴きに行きました。地方創生、「誇りあるまち花巻の創造」がテーマでした。

聴講を終え、さまざまな感想を持ちました。

 

自分の印象に残ったのは、市役所職員の方が提示してくださった、花巻と県内外の他市町村とを比較した数点の資料でした。

その資料を用いて説明してくださったことには、花巻は観光資源に富んでいるのに加え、それらの資源は観光スポットとしてある程度広く認知されているため、「観光競争力が高い」自治体なのだそうです。(…ほうほう。)

しかし、そのような観光面での恵みのようなものを、実際的に生かせているか、という点は疑問が残るとのこと。(…同感…)

花巻で活性化すればよいと考えられるのは体験型事業だそうで、例えば温泉に宿泊目的で花巻にいらっしゃった方が、その前か後に何らかの体験(観光)に参加することが生む経済的効果は馬鹿にできないそうです。(…ふむふむ)

加えて、花巻市民は盛岡や北上などといった近郊の街でお金を使う傾向にあるらしく、そういう点からしても、体験型事業の活性化へ期待の目が向けられるとのことです。(…たしかに…)

 

 

今回の会は、観光・商業視点からの地方創生がテーマで、講師としていらっしゃった評論家の山田五郎さん(個人的に「どっちの料理ショー」の印象が強い。笑)は、宮沢賢治と関連するイメージを観光面で生かしていくのが(やはり)可能性があるのでは、とお話しされていました。(実際には聴講せず、新聞記事を読みました)

 

 賢治の存在を花巻の街づくりに生かしていこうという活動は以前から行われてきたものですが、だから別のもの、ではなくて、その具体的生かし方を工夫していく必要があるように思います。

 

 自分としては、工夫という言葉を、協同という言葉とともにイメージするのですが、例えば、観光業界のみの活動ではなくて、農業との協同(稲刈り体験後に温泉につかろうツアー、葡萄狩りとワイナリー見学後、レストランで食事ツアーなど)、文化振興や教育という面との協同(農作業体験と温泉宿パック、寺子屋合宿体験)など、業種を超えた視野で「体験」を考えることに可能性があるのではないかと、安易ですが思っています。

 

 今回のパネルディスカッションには、地域おこし協力隊の方のパネリストとして参加していらっしゃっていて、その方の取り組みに関してもいろいろな感想を持ちました。

 機会が得られれば、このような会にこれからも参加したいです。

 

 

蛇足的補足【賢治マニア向け花巻ツアー&イベント(少しふざけてしまった)】

※すべて妄想

  • 「石っこ賢さん」集合!花巻鉱物採取ツアー
  • 伝統芸能で賢治のオノマトペを体感!鹿踊り・早池峰神楽見学ツアー
  • 「よだか」はいるのか?花巻でバードウオッチング
  • 「やまなし」を見つけよう!渓流散策
  • 熊に遭わぬように「なめとこ山」に登ろう!
  • BGMはもちろん「星めぐりの歌」!天体観測ツアー
  • ねこやたぬきも来ちゃうかも!賢治のチェロ演奏会
  • 「玄米四合と味噌と少しの野菜」を味わう農作業体験・炊飯体験
  • 雪渡り」を体験しよう!冬の雪原ウォーキング

 

 

問いかたひとつで。

 人が考えようとするのは、問いをもつからですが、その問いにもさまざまな質があるように思います。わかりやすいのは学校で受けるテストの問題に当てはめることだろうと思いますが、問題によって解き易さが、つまり難易度が違います。だからと言って難しい問題が即ち「質のよい問題」とは言えないはずです。どんな問いが良質なのか。小林秀雄(1902~1983年)も、こんなことを言っています。

 うまく質問するのは、なかなか難しい。問題が無ければ質問しないわけだが、その問題が間違っていたらしようがないでしょう。うまく問題を自分で拵えて、質問をしなければいけない。

(「小林秀雄 学生との対話」新潮社)

 「うまく質問する」という感覚は、ディスカッションや話し合いのときに強く意識されることかもしれません。興味深いのは、「うまく問題を自分で拵(こしら)えて」というところです。前提として「問題」というものは「作り出すもの」であり、その作りかた(問いかた)に上手さ下手さがある、という小林の言葉には、ハッとさせられるものがあります。この「問題はあくまで拵えるものだ」ということを自覚しているかどうかという点は、その人の思考の方向に大きな違いを生むはずです。

 

 この点と関連して、いま読んでいる本『ナリワイをつくる』の筆者も、下記のようなことを書いています。

 「日常生活の違和感を見つける」は、「足下を見る」ことである。これは、未来とかを考えるのが苦手な人に向いている。細かいことを含めて、日常生活の違和感を見つける、という帰納的なやり方である。「なんで、ごみが多いの?」という大きいことから、「そもそも、優秀な即戦力ってなんや?」、「そもそも、会社の飲み会が必要か?」、「大学の授業料って高すぎじゃないか」、…(中略)…。

 (「足下を見る」ことと)似て非なるやり方として「なぜを5回繰り返せ」というやり方があるが、これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向があるので、21世紀のポストグローバリゼーションの生き方を考えるナリワイ的考え方としては、「なぜ」よりも「そもそも」を常に考えて違和感を見つけていくのがよい。「なぜ、車が売れないのか?」よりも、「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも、住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがおすすめである。

(伊藤洋志「ナリワイをつくる」)

 

 「なぜ」より、「そもそも」。

 この二語の違いは、ニュアンスの違いとも言えそうな微妙なものですが、問いの質は明らかに異なり、考える方向も違います。「そもそも」は、「当たり前」の方というか、問いを考えている自分の地面を疑っている感じが、僕にはします。そしてこのような、「そもそも」を使った問い立てこそ、自分にとっては本当に面白いです。言葉一つの違いで見える世界が変わってくることに気づかされ、何というか、ちょっと感動しました。(自分は、これから時間をとって、「そもそも」から始まる問いを書き出してみるつもりです。)

 

 最後に冒頭の話に戻ります。学校などのテストは「問題ありき」で、例えば「〇〇は何ですか」と、初めから問い立てがされてあり、受験する人は「答える側」です。問いに答えるためのさまざまな知識をはかるためには、適当なものでしょう。しかし、見落としてはならないのは、「答えるための知識」がある一方で、「問うための知識」というものもあるということです。「よく考える」ということには、その両方の面が大切なのではないでしょうか。…などと言いますが、その「よく考える」ことは「頭で考える」のではなく、実生活で実行を繰り返すこと(つまり、それがほんとうの「考える」ということかと自分は思う。)で磨かれていくことのように思います。

 

 よく考えて生きていきたいなぁ。

 

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本日は、本です

本日は、最近読んだ本、読んでいる本を載せます。

 

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左、①伊藤洋志『ナリワイをつくる』東京書籍

 以前このブログ(2日目の記事)にも書いた友人から薦められた本です。

 …とても面白い!!よい本に出会えたと感じます。

 まだ途中なので、読了後、考えたことをまとめてみます。

 

松浦弥太郎松浦弥太郎の新しいお金術』集英社

 松浦弥太郎さんが書いた本に初めて出会ったのは学生の頃でした。以降、新刊が出るたびに本屋で確かめ、ほぼ購入。本棚には、背表紙の「松浦弥太郎」が並んでいます。松浦さんは、NHKの朝ドラでも注目された「暮らしの手帖」(これがまたいい。働き始めてからも、少し恥ずかしかったが買っていた。)の編集長を務められた方ですが、何年か前にクックパッドに移籍されました。自分は、彼の文体、というか文章の雰囲気が好きで、よく読んでいます。この本のテーマはタイトル通り「お金」。「術」というと、「使い方」「増やし方」という資産運用のことのようにとる人もいるかもしれませんが、ここではそうではなくて、それを含めた「付き合い方」という意味で松浦さんは話を進めます。お金とは何だろう?と、自分できちんと考え直そうと思いました。

 

 

 

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③④は、ジャンルでいうと現代小説にあたる本たちですが、自分は普段、このジャンルの本は滅多に読みません。だから、この本を選んだときの自分になにか理由があったのでしょう、思い返してみます。

左、③中村文則『何もかも憂鬱な夜に』集英社

 これは、又吉さんの薦めです。又吉さんと呼んでいるからって、もちろん知り合いではなく、あの「火花」の又吉さんが、彼の新書で薦めていた本でした。その又吉さんの解説を読んで、この本を読んでみたくなりました。小説の主人公は刑務官として働いているのですが、ある死刑囚と関わる中で……という内容です。ちょうど日弁連死刑廃止宣言をニュースで知ったところだったので、考えることの多い内容でした。又吉さんの解説は、やはり良かった!

 

④中野量太『湯を沸かすほどの熱い愛』文春文庫

 この本は映画の原作本ですが、その映画の監督が書いたものです。夏に映画館で観た映画の予告として流れていて、観たいと思いました。偶然、本屋さんに置いてあるのを見つけて読んでみました。映画も観たくなりました!

 

 というわけで、読書の秋です。。

宮沢賢治の言葉

 ここ5年くらいの間で、自分の語彙の総量を想像したとき、賢治が記した言葉が占める割合が増えたように感じる。学生時代に手にした文庫本を読み直すと、また新たな感想を持つ。賢治が30歳のとき(ちょうど現在の自分と同じ年齢…)に、執筆、講演したという「農民芸術概論綱要」のなかには、以後有名なフレーズになった「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉があるが、このフレーズ以外にも、注目しておきたい、というか、大切にしたいと言葉があると、自分は思う。現在から90年前に述べられた考えだが、「古さ」など感じない。ここで賢治の言う「農民」を、単なる「農業従事者」を意味するものとしての理解にとどめておく必要はないだろう。以下、引用。

序論

・・・われらはいっしょにこれからなにを論ずるか・・・

おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい

われらの古い師父たちの中にはそうゆう人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会全宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか

新たな世界は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことのみである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 ※索ねよう=たずねよう

 

農民芸術の興隆

・・・何故われらの芸術がいま起こらねばならないか・・・

曾つてわれらの師父たちは乏しいながらも可成楽しく生きていた

そこには芸術も宗教もあった

いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い

芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した

いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである

われらに購うべき力もなく 又さるものを必要とせぬ

いまわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ

芸術をもてあの灰色の労働を燃せ

ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある

都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

※曾つて=かつて、可成=かなり、然も=しかも、若しくは=もしくは、販る=うる、購う=かう

 

 「芸術」や「宗教」という言葉に、ごちゃごちゃとした説明や思い込みを貼り付けがちだ。しかし、そうではなくて、本質的意味に迫ってそれらの言葉を捉える必要があると思う。次が、いまの自分ができるそれぞれの言葉の定義だ。

  「芸術」= つくりだすこと、感動すること、美しいと感じること。

  「宗教」= 感謝すること、祈ること、畏れ敬うこと。

人間として生きるということの本質にあるものだと思う。

 

蛇足かもしれないが、引用部の最後のフレーズである、

  「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」

は、決して「都市への、地方の魅力発信」などとくっつけて、「ほら!賢治もこう言ってるでしょ?理想郷ですよ、田舎は!」などというように、キャッチコピーとして使うようなレベルのフレーズではない。

 

人としての暮らしや、存在の不思議や構造を考えた賢治の言葉を、これからも味わっていきたい。

 

4日目

こちら、本日、抜けるような青空でした。

日中は雲が見当たない、完璧な快晴。

 

下の写真は、黄昏時の空です。

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最近気づいたのが、「雲ひとつない青空」はたしかに綺麗だなぁと感じるけれど、雲がいくらかある空も美しい、ということです。

自分は、後者のほうが好きかもしれないなぁ、とぼんやりと思いました。

 

空を見上げながら、加えてふと思ったのが、今このときに、自分と同じように空を見上げている人は、一体どれくらいいるのかなぁということでした。

同じ空を見上げていても、見ているポイントは違うだろうし…。うんぬんかんぬん。

 

空は、いろいろ感じさせてくれますね。

下手に本を読んだり、映画を観たりするよりいいかもしれません。

そしてまた、空は、別に「感じろ!」と強制したり、「どう思う?」と尋ねてきたりすることがありません。

ただ在るだけ。

 

ちょっと空を眺めて、心を空っぽにする時間も、あっていいと思いました。

 

以上、本日は、空について。

 

※ プラス、「宮沢賢治の言葉」をメモとして…。

 

 

3日目です

本日は、昨晩参加した、ある催し物に関して書きます。

 

昨晩、「第87回みやぎ『食ひと』サロン」という会に参加して来ました。

「食に関わる産業を通じての地域活性」というテーマに興味を持ち、門外漢ですが初めて参加させていただきました。

 

今回のサロンの内容は、仙台市・秋保にある秋保ワイナリーの代表者である、毛利親房さんという方の講演でした。

毛利さんが秋保にワイナリー(ワイン醸造所)をつくろうと考えたのは、「自分は何かできないだろうか」という思いがきっかけだったと仰っていました。東日本大震災後に、あるきっかけで秋保の地と関わりが生まれた毛利さんは、少し元気がなくなっている秋保を活気づけたいという思いを持ちます。その思いが探究につながり、ワイナリー(ワイン醸造所)をつくる、というアイディアが生まれ、それを協力者を得て実行、実現させました。

 

毛利さんによると、ワインはさまざまな産業をつなぐものらしいです。

例えば、ワインの原料である葡萄を栽培する営み(農業)、葡萄からワインをつくる営み(食品加工業)、ワインを販売する営み(小売業)、ワインを飲む場に関わる営み(飲食業、観光業、建設業など)というように、ワインをバトンのようにして、さまざまな営みがつながります。このようなつながりが、今後さらに多方面に広がり、密にもなっていくようです。

ふむふむ。なるほど。

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(写真:秋保ワイナリーで醸造したワイン。地元産の葡萄100%。ラベルは万華鏡のデザインらしいです。)

 

毛利さんのお話は、さまざまな方向への可能性を感じられ、刺激に満ちたものでした。多くの気づきや感想を持つことができましたが、特に印象深かったことをメモとして以下に書きます。

  ・秋保と、自分の地元岩手・花巻で共通する点が(多く?)ある

     例)温泉、ワイン、多様な農産物、など

  ・「食」を切り口にすると、多様な産業との結びつきを考えることができる

  ・岩手・花巻には「素材」がある!(失礼ですが、宮城よりも…。個人的見解)

  ・地域づくりは全員参加が肝

  ・できることからはじめる(できることしかはじまらない)

  ・似たような思いを持つ人は、案外いる

 

普段関わることがないような業種の方ともお話しができました。

よい会に参加したと思いました。