気まぐれ日記

気まぐれに記す

宮沢賢治の言葉

 ここ5年くらいの間で、自分の語彙の総量を想像したとき、賢治が記した言葉が占める割合が増えたように感じる。学生時代に手にした文庫本を読み直すと、また新たな感想を持つ。賢治が30歳のとき(ちょうど現在の自分と同じ年齢…)に、執筆、講演したという「農民芸術概論綱要」のなかには、以後有名なフレーズになった「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉があるが、このフレーズ以外にも、注目しておきたい、というか、大切にしたいと言葉があると、自分は思う。現在から90年前に述べられた考えだが、「古さ」など感じない。ここで賢治の言う「農民」を、単なる「農業従事者」を意味するものとしての理解にとどめておく必要はないだろう。以下、引用。

序論

・・・われらはいっしょにこれからなにを論ずるか・・・

おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい

われらの古い師父たちの中にはそうゆう人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会全宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか

新たな世界は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことのみである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 ※索ねよう=たずねよう

 

農民芸術の興隆

・・・何故われらの芸術がいま起こらねばならないか・・・

曾つてわれらの師父たちは乏しいながらも可成楽しく生きていた

そこには芸術も宗教もあった

いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い

芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した

いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである

われらに購うべき力もなく 又さるものを必要とせぬ

いまわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ

芸術をもてあの灰色の労働を燃せ

ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある

都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

※曾つて=かつて、可成=かなり、然も=しかも、若しくは=もしくは、販る=うる、購う=かう

 

 「芸術」や「宗教」という言葉に、ごちゃごちゃとした説明や思い込みを貼り付けがちだ。しかし、そうではなくて、本質的意味に迫ってそれらの言葉を捉える必要があると思う。次が、いまの自分ができるそれぞれの言葉の定義だ。

  「芸術」= つくりだすこと、感動すること、美しいと感じること。

  「宗教」= 感謝すること、祈ること、畏れ敬うこと。

人間として生きるということの本質にあるものだと思う。

 

蛇足かもしれないが、引用部の最後のフレーズである、

  「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」

は、決して「都市への、地方の魅力発信」などとくっつけて、「ほら!賢治もこう言ってるでしょ?理想郷ですよ、田舎は!」などというように、キャッチコピーとして使うようなレベルのフレーズではない。

 

人としての暮らしや、存在の不思議や構造を考えた賢治の言葉を、これからも味わっていきたい。