気まぐれ日記

気まぐれに記す

問いかたひとつで。

 人が考えようとするのは、問いをもつからですが、その問いにもさまざまな質があるように思います。わかりやすいのは学校で受けるテストの問題に当てはめることだろうと思いますが、問題によって解き易さが、つまり難易度が違います。だからと言って難しい問題が即ち「質のよい問題」とは言えないはずです。どんな問いが良質なのか。小林秀雄(1902~1983年)も、こんなことを言っています。

 うまく質問するのは、なかなか難しい。問題が無ければ質問しないわけだが、その問題が間違っていたらしようがないでしょう。うまく問題を自分で拵えて、質問をしなければいけない。

(「小林秀雄 学生との対話」新潮社)

 「うまく質問する」という感覚は、ディスカッションや話し合いのときに強く意識されることかもしれません。興味深いのは、「うまく問題を自分で拵(こしら)えて」というところです。前提として「問題」というものは「作り出すもの」であり、その作りかた(問いかた)に上手さ下手さがある、という小林の言葉には、ハッとさせられるものがあります。この「問題はあくまで拵えるものだ」ということを自覚しているかどうかという点は、その人の思考の方向に大きな違いを生むはずです。

 

 この点と関連して、いま読んでいる本『ナリワイをつくる』の筆者も、下記のようなことを書いています。

 「日常生活の違和感を見つける」は、「足下を見る」ことである。これは、未来とかを考えるのが苦手な人に向いている。細かいことを含めて、日常生活の違和感を見つける、という帰納的なやり方である。「なんで、ごみが多いの?」という大きいことから、「そもそも、優秀な即戦力ってなんや?」、「そもそも、会社の飲み会が必要か?」、「大学の授業料って高すぎじゃないか」、…(中略)…。

 (「足下を見る」ことと)似て非なるやり方として「なぜを5回繰り返せ」というやり方があるが、これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向があるので、21世紀のポストグローバリゼーションの生き方を考えるナリワイ的考え方としては、「なぜ」よりも「そもそも」を常に考えて違和感を見つけていくのがよい。「なぜ、車が売れないのか?」よりも、「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも、住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがおすすめである。

(伊藤洋志「ナリワイをつくる」)

 

 「なぜ」より、「そもそも」。

 この二語の違いは、ニュアンスの違いとも言えそうな微妙なものですが、問いの質は明らかに異なり、考える方向も違います。「そもそも」は、「当たり前」の方というか、問いを考えている自分の地面を疑っている感じが、僕にはします。そしてこのような、「そもそも」を使った問い立てこそ、自分にとっては本当に面白いです。言葉一つの違いで見える世界が変わってくることに気づかされ、何というか、ちょっと感動しました。(自分は、これから時間をとって、「そもそも」から始まる問いを書き出してみるつもりです。)

 

 最後に冒頭の話に戻ります。学校などのテストは「問題ありき」で、例えば「〇〇は何ですか」と、初めから問い立てがされてあり、受験する人は「答える側」です。問いに答えるためのさまざまな知識をはかるためには、適当なものでしょう。しかし、見落としてはならないのは、「答えるための知識」がある一方で、「問うための知識」というものもあるということです。「よく考える」ということには、その両方の面が大切なのではないでしょうか。…などと言いますが、その「よく考える」ことは「頭で考える」のではなく、実生活で実行を繰り返すこと(つまり、それがほんとうの「考える」ということかと自分は思う。)で磨かれていくことのように思います。

 

 よく考えて生きていきたいなぁ。

 

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